ラベリング現代
確か、ある状態やモノに名前をつけるのをラベリングと言うのだったと思う。
ここ最近の周囲の人間関係を見渡すと、「病んでいる」、「病んでない」という別が頻繁に使われていた気がする。これは、私自身が病んでいて、また、誰かを病ましたからかも知れない。
「ニート」や「引きこもり」、そしてこの「病んでいる」も、ラベリングなのだと思う。ラベリングは非常に便利である。例えば、「ニート」という言葉がなかった頃は、「働かない、学ばない学生」の事をどう表現してよいか分からなかったはずだ。人によっては、「怠け者」と称していたのだろうが、それでは不十分だったハズだ。
社会の問題として、取り組まれた結果、「ニート」という言葉が生まれたのだと思う。それは、ある種、安心を与えたと思うのだが、失われたモノもあると思う。そして、それは、愛だと思う。
ラベリングが出来て、便利になったから、会話も終了しやすくなった。例えば、知り合いが、何らかの原因で家から出てこない、学校に来ない、元気がないって時に…
「まあ、引きこもりやからね。」
「まあ、ニートやからね。」
「まあ、病んでいるからね。」
この3つのうちのどれかで安心してしまう。共通認識としてのラベルがある事で、一応の納得が得られてしまう。ラベルがなければ、もっと深く対象を知ろうとするのじゃないか。ラベリングされる事で、対象が個人から社会に昇華されるような無力感があるのかも知れない。
さて、ラベリングの安心や納得は、ラベルがつけられた本人にも発生する。「自分が何者か?」という不安はなくなる。私自身、卒業後の進路が未定だから、「このままだとニートになるな。」と知人に話す事があるのだが、ラベルを使わないなら、「ニートになる」じゃなくて、「何もしなくなる」って事になる。この方が未来への不安が大きく感じる。自分の事だと噛み締めるというか。
そんな訳で、愛が失われるのも、意味のない安心と納得もいらないので、しばらく、ラベルを使うのを止めようと思います。
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