【子どものしつけ】『肘をついて飯を喰うな!』
お母さんは、好き嫌いがないです。偉いです。ご飯は毎日、お母さんが作っています。
フランスの格言(デマ)
中野家には鉄の掟がある。それは、「肘をついて飯を喰ってはいけない。」。食事マナーに関して、記憶に残る最初のしつけだと思うし、最初に怒られた時の事もよく覚えている。記憶の改ざんはあるかも知れないが、当時の私は、『肘』が腕のどの部分かよく分からなくて、「とにかく食卓に手をつけなければいいんだ!」と思って、茶碗と箸を持った手を宙に浮かせていたら、手が痺れた。訳が分からない上に、すごく怖かったと覚えている。
当時の私は(今も)捻くれていたから、
「どうして肘をついたらいけないのか?」
と聞いた。多分答えは、
「みっともないからだ。外に出て恥をかく。」
「外じゃあやらない。」
「そう言っていても家でやってれば外で出る。」
「外に出た時に本当に恥をかくのか?」
一番最後の台詞は本当に言ったかどうかは分からないが、今でもそう思う。『肘をついて飯を喰う』事は本当に『恥ずかしい』のか?今は、そのしつけが完了しているから、外に出て、乱れて喰う事はないけど(公共性が高い場所では)、最初にある記憶から考えると、一定の恐怖が支配しているような気がする。だから私は、家で一人の時は、「だら~」とした感じで飯を喰うのが、背徳感があると同時に、一種の喜びでもある。
『肘をついて飯を喰う』。それが行儀の悪い事だとは思うのだが、当時の私が『納得』出来る説明はなかったのか?そして、今分かる事は、父親が肘をついて飯を喰う事をタブーとしたのは、おそらく、
彼の近しい人間がそういう飯の喰い方をしている上に、彼がその人の事を嫌い、じゃなくても好ましく思ってなかったからだ。
事実、中野家の食卓では、屁やゲップの類はマナー違反ではない。「肘をついて飯を喰うな!」とは嫌って程言われたけど、「飯喰っている時に屁をこくな!」とは一度も言われた事がない。理由は、単純だ。つまり、親のしつけとは、親が嫌な事を子どもにさせない、という事に過ぎないのだ。決して絶対的なルールがある訳じゃあない。その事が分かった今、両親が年をとって、その最近、中野家のテーブルルールがふにゃふにゃになってきているのを感じて思うのは、半端なしつけは逆効果、
子どもが納得行くようにしておかないと、将来的に説得力を持たないという事だ。
そう、納得だ。納得は何より優先するぜ。
例えば、『肘飯』を例にしたら、どんなしつけなら納得出来たか?『肘』の意味が分からなかった自分には、どれくらい言葉が理解出来たかは分からないが、「外に出たら恥ずかしい」というならば、仮にダラリと飯を喰っていた当時の私が
家族の喰い姿をみて、自然と自分が恥じる事が出来れば、一番、納得がいったのじゃないだろうか。それが、恥ずかしい事だと自分で感じる事が出来れば・・・多分、20年以上経ってからこんな記事書いてない。
他には、「きちんとした姿勢で食べる事が作ってくれた人への感謝だ。」とか。駄目だ、中野家は食べ物に敬意を払ってねえ。子どもの頃から、「味なんてどうでもよい。」、「品数があれば父親は満足。」、そんな言葉が飛び交っていた。私がジャンクなモノを含めて、食べ物を尊敬しているのは、その反面教師的な効果なのだろうか。
そんな私が、将来的に大切にしたい食事マナーは・・・色々あるけれど(『ご飯の時はTVをつける』等)、一番大切なモノの一つは・・・
・ご飯とお菓子を同列に扱うな!
という事になる。白ご飯の変わりにお菓子(スナック菓子等)を食べるとか言語道断。ご飯はご飯!お菓子はお菓子!おかずの類とお菓子が同じテーブルに乗っているとか許せん。それは、ご飯に対する冒涜であり、お菓子に対する冒涜である!
・・・とまあ、私自身も『肘飯』は行儀が悪いという事は分かっているのですが、最近、子どもの頃親に言われていた事が、全て、絶対的なモノでもなかった事に気がついて愕然とした訳です。しかも普通は、高校生ぐらいが考えそうな事でさらに愕然とした訳です。子どもをしつける場合は、子どもが執念深い可能性もある訳で、理路整然とした納得の行く、しつけじゃあないと、しつけにならないのだな。と思いました。
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余談 ブログの文章の中に『納得』が頻出するようになると、ブロガーは中二病の一つと考えられるSBR病にかかっている可能性があるでしょう。
私はSBR病にかかっています。
参考:
中二病(ウィキ)
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