突然だが、『報道』を考えた~メディアリテラシーとか?ネットとか?
最近、ニュース番組やワイドショー、特にワイドショーを見ていて思ったのだが、「テレビってのはそこまで放送する権利がある」のだろうか?何か事件が起きれば、容疑者の家の周辺の風景や家のアップ、近所の人の声とかを伝える。地名と風景が出れば場所が出来る。また、本名を報道すれば、そこからネットに流れていくかも知れない。そして、近所の人の声、たいてい、「おとなしい人だった。」とか、「仲の良さそうな家族だった。」とか、そんなの。
そして、ワイドショーは特にそうなのかも知れないが、司会の人やコメンテーターの人がコメントを出す。彼らの影響力は結構あるだろう。もっとも、コメントを出すのが、ワイドショーなのかも知れないのだけど・・・。
ともかく「どこまで撮影・取材するのか?」とか「どこまで個人の意見を流すのだ?」というのが気になったから、
Wikiで『報道』の項目を調べてみた。ここで、Wikiに頼るのが、ネット人ぽいのだけど、何しろ手軽で、集合知というものをある程度信頼する。しかし、「Wikiはほとんど間違っている!」という言葉もあるから、注意は必要だ。
報道の原則を引用すると・・・
報道は報道を受け取る大衆との信頼関係の上に成り立っている。 この為、報道は事実に基づいたものである必要があり、事実を追求するための取材が不可欠である。 憶測や推測に基づく記事は、信憑性が失われる原因となり、結果として信頼関係を失うこととなる。 取材をして裏付けを取り、事実を報道することが、報道の原則である。
よく、報道関係者が「真実を伝える」と発言することがあるが、これは原理的に誤りである。 なぜなら、ねつ造しない限り、事実はあくまで事実である。 だが、情報の送り手が真実を判断して、情報の受け手に伝えるということは、その時点で、情報の送り手側が事実に対して何らかの判断を下している可能性がある。 しかし、送り手側がどのような判断を行っているかを情報の受け手側は知りえない以上、この時点で原理的に報道の中立公正さが崩れているからである。 「報道は、事実をありのままに伝えること(事実を曲げないこと)」と言われるのは、この為である。
とある。これによると、事実を追求するための、取材は必要で、許されている感じなのか。しかし、気になるのは中立公正という部分。今、テレビを見ていても中立公正という気は全然しない。スポンサーや視聴率の問題、また、組織としての思想等々が絶対に関係していると思う。TVによく出てくる政治家と、そうでない人がいたり、政党レベルでそれは顕著に思われる。
扇動的になっている報道? 後、視聴率に連関して、ニュース番組も面白くないと見てもらえないというのがあるみたいだ。だから、感動を揺さぶる音響が入ったり、ドラマティックな編集・演出が入ったりする。そして、キャスター自体が有名人になってたりする。しかし、本当に「中立公正」にするなら、演出を除して事実のみを伝えないとダメなのじゃあないだろうか?しかし、そうなったらニュース番組は面白い番組ではなくなるだろう。番組の間に挟まれる5分くらいのニュースは、それが保たれているかも知れない。
しかし、演出が加わっているニュース番組がやはり影響力が多くて、いわゆる報道被害に繋がっている部分もある。
Wikiの報道被害の項に色々と書かれている。
私が、それが報道被害であるかは、別として、今思えば扇動的だったと思われる事柄を挙げてみる。
1994年頃、私は中学二年生だったのだが、当時の友人と中学校からの帰り道に話していたのだが、友人の一人は、「農薬を適当に混ぜてたら変なガスがでたんや!」と言っていた。当然、それは間違いだった訳だが、少なくとも当時の中学生をそう思わせるくらいの影響力が、報道にはあった。
2004年。TVをつけてもラジオをつけても、「自己責任」という言葉が流れてきて、非常に気が滅入った。「自己責任」という言葉に反論する論者は極端に少なかった。「自己責任」がどうであるかは別として、「公正中立」を保つなら、同じくらいに反対側の意見を出してくれないと困る。一種の熱を感じた。
2005年。私は、2005年を『オタク元年』とか『ブログ元年』だと考えているのだが、『株』も凄かった。TVで物凄く株が取り上げられていた。特に感じたのは、バラエティ番組等々なので、報道番組の印象はちょっと私の中で薄いのだが、TVというメディアで見れば、かなりフィーバーしていたと思う。そして、2006年の年頭での逆転劇は、一視聴者としてビックリした。
以上のように、TVから実世界の影響を考えると、「公正中立」でないと困るし、『報道被害』の例を見ると、全然達成されてないのじゃあないかと思う。勿論、誰しも、どんな組織も間違いはあると思うので、「常に完璧であれ」とは言い難い部分もある。
メディアリテラシー TVから流れてくる情報が常に正しいとは限らない事を考えると、メディアリテラシーというものが重要になってきる。やはり、Wikiのメディアリテラシーの項から引用すると・・・
メディア・リテラシー(英:media literacy)とは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。
とある。勿論、Wikiの情報も絶対に真であるとは限らないから、ここでもメディアリテラシーが必要である。おそらく情報化社会において、依然TVが影響力を持ち続けるなら必須の能力だと思う。そして、それはTVから学ぶ事は難しいのじゃあないだろうか?TV側が「TVの内容は間違っているかもしれないから鵜呑みにしないで下さいね。」とは言えないだろう。だから、私は、ある程度信じているし、ある程度疑っている。だが、「健康情報番組」とかに弱い一面を考えると、まだまだ、なのかも知れない。
インターネットの力 さて、最近、私がこういうことをとみに考えるようになったのは、インターネットの影響が強いのじゃあないかと思う。ブログというのは、一応、情報を発信する場だから、一つ自分の考えを発表していると思う。どれくらい閲覧させれいるかは別として、だ。
そして、TVとインターネットの違いは、「欲しい情報を自発的に探している。」という事だと思う。ニュース番組を見ていると、その日にあった事が時間内に流されるが、インターネットの場合は、例えばYahooのトップのニュースも、気になった項目をクリックする訳だから、それは情報を選択していると思われる。
また大事なのは、インターネットは「基本的にメディアリテラシーの上で成り立っている」のじゃあないかと言う事だ。全ての人がどうかは分からないが、「インターネットに載っている情報は鵜呑みにしない。」というスタイルがあるのじゃあないだろうか?TVよりも疑われている割合は絶対に高いと思う。だがしかし、それが情報に向かい合う基本姿勢なのじゃあないだろうか。
個人だから出来る個人の力 ブログの隆盛か、ネット上ではTVでは出てこない個人の考えや意見がある。さらに多くのソーシャルブックマークが集まっている記事やページには、確かに納得させる事が書いてある場合もある。また、インターネットの強みは、情報が蓄積し、また、その追跡が簡単に行える部分にもあると思う。
また、インターネットには、匿名である事の強みや、利益関係が介在しない事があるのかも知れない。そういう意味では、記事から収入を発生させているアフィリエイターである私の記事は、その分で説得力が失われるかも知れないし、激しい批判もしない傾向にある。
話がそれたが、聞いた話では、アメリカでは、TVから報道番組が数を減らし、ブログの影響力が日本よりも強いそうだ。日本でも、報道のあり方が変わるかどうかは分からないけど、好まれる情報のある場所が変わってくるかも知れない。
もっとも、インターネットをするには、TVとは別にお金がいる訳で、「TVはあるけどパソコンはない」という家の方が、逆より多いだろうし、また、ソーシャルブックマークとかは知的な印象があるから、TVほど伝播するかは分からない所ではあるが・・・。
まとめ? 情報に触れ合う機会が増えているからこそ、それを識別する能力、メディアリテラシーというのは確かに必要であり、そして、大元は「公正」とは言い難いTV報道に、ちょっと憤りを感じた訳です。
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余談 この記事を読むと、ワイドショーは特に嫌い!って感じがするかもしれませんが、
MBSの『ちちんぷいぷい』という番組は好きだったりします。同番組が、完璧に「公正」であるかは分からなくて、多分、少しはどちらかに寄っているとは思うのですが、問題に対して理路整然と意見が述べられる所とかが好きです。時に情熱的なので、引いてみれば、その辺りに問題はあるかも知れません。
でも、大元は「出演者の方々に共感出来る」という部分にあると思うので、ワイドショーの嗜好性は、そういう部分にあるのだと思います。
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