週刊少年ジャンプ16号お詫び文に関して…誰も傷付けない表現はあるのか?
はじめに
週刊少年ジャンプ2010年16号のお詫びに関して、表現全般に色々と考えたので、ちょっと書いてみようかと。間違いなくネットでも何度も議論されている「誰も傷つけない表現はあるのか?」という事に関して。
誰も傷つけない表現はあるのか…ないだろ、そんなもん…。
いきなり結論だけど、誰も傷つけない表現は、ないと思う。ないことは、ないと思うけど、極力誰も傷つけない、という事しかできないと思う。
例えば、絵本『100万回生きたねこ』で傷つく人を想像できないけど、仮に週刊少年ジャンプの内容が、絵本的になったとしたら、それは、もうジャンプじゃあないだろう。そういう意味で、ないと思う。
表現に毒素は必要?
要・不要というよりも、表現というものが、既に毒を含んでいるのだと思う。そして、その毒の部分が面白かったりする。と思う。作家の筒井康隆さんは、思いっきり「自分の小説は毒だから、子どもは読まないで欲しい」と昔、言っていたとか、ネットで読んだ。
でも、マンガには毒を含むから、それはそれとして、毒を垂れ流せ!じゃあなくて、描く人、編集する人、読む人…と、『マンガには毒が含まれている』という事を認識する事が大事だと思う。
ブログ村ランキングです!
応援お願いします!
にほんブログ村
↑ジャンプ感想ブログランキングもチェックできます!
スポンサーリンク
配慮に欠ける表現がありました。
16号の目次ページの『お詫び』の文章が、雑誌社の、集英社の編集部の姿勢というモノが見えた。気がする。実際に心を痛めた人がいれば、それに対する謝罪をする。当然ちゃあ当然だが、本懐ではなかった、という事なんだと思う。ジャンプの出版部数や影響力を考えたら、編集部は、常に気を張っておかなければならないのだろうな。
リテラシーの問題もあると思う。ジャンプには、間違った事、不健全な事、誰かを傷つける事が含まれていると、銘打った方がよいのかも知れない。エロマンガには、(予防線の意味もあるだろうけど)、『社会的・倫理的・道徳的に間違った事が書いてあるから、真似するな、捕まるよ。』と、しっかり書いてあったりする。
話はちょっとずれたけど、ジャンプに『健全な青少年の育成』というような狙いはないだろうから、『フィクションである』という注釈以外にも、もっと書いていった方がよいのかも知れない。
道徳
結局、大事なのは『道徳』なんだな、と思う。小学校の時に習う『道徳』。そして、それは、『痛みは自分に置き換えて考える。』事と、『相手の事を思いやる気持ち。』なのかな、と。実際に傷ついた人がいたとして、その人が感じた事は、感じる事はできないし、だから、安易に考えない方がよい、という事だと思う。
実際に、自分の事に置き換えて考えてみるのも大事だと思う。自分のコンプレックスに置き換えてみる。例えば…
・29歳独身は社会の害悪
とか、ジャンプで出てきても、なんとも思わないけど…
・喘息くらいでぜぇぜぇ言って大袈裟
・聞いているだけで、しんどい
とか、出てきたら、ちょっと傷つくかも知れない。さらに、それが、多くの人に支持され、公に認められ、友達も読んでいる雑誌に、自分のコンプレックスが出てきたら…子どもの頃の自分を思い出すと、子どもって、残酷だ。藤子先生が、ジャイ子に本名を設定しなかったのは、正直、行き過ぎた配慮だと思ったが、正しい判断に思えてきた。
その辺りを気にすると、毒を含んだ表現、マンガとかは一切創作できなくなるような気がするが、その部分を踏まえているのと、いないのでは、出来てくるものが全然違うと思う。
おわりに
今回のような事を考えると、同時に「いじめられる方にも問題がある。」という意見を思い出します。そして、私はこの意見に超反対です。なので、私の意見に超反対の人は、この記事にコモンセンスを得にくいかったもしれない。まあ、ひとつの予防線というか、なんというか。
読者、感想者の立場としても、今後のジャンプを楽しんでいける事を願っています。
関連記事(一応)
詭弁学派、四ツ谷先生の怪談。(古舘春一)は、ムヒョロジ(西義之)っぽい?~ジャンプ感想2010年13号③↑まあ、お詫び文に関するような事は触れていない感想です。
スポンサーリンク
読んで欲しいです!自薦記事。
この記事の前後の記事。
同じカテゴリ内の前後の記事。
そろそろ別のサイトへ→
退出口