小説を書く時に、テーマだったり、登場人物だったり、世界感だったり、ネタだったり、ガジェットだったり、オチ(だったり)色々な取っ掛かりがあると思うけど、結局、私の場合は(真面目に書く時は)自分の感情とか、人間性を切り売りしている部分があると思うのだけど、その辺りに関して考えてみたい。
全く自己を投影しない書き方もあるし、できるはずだし、やっていたけれど、近年ではそれじゃあ満足できない自分がいる。
実感があるとないとで、小説の深さ(面白み)のようなものが変わるような気がするからだろうか。
実感=リアルさ、というように考えると、自己を投影することが一番簡単で、唯一の方法のようにも思われる。自己を投影せず、リアルなものを書こうとするなら、綿密な調査や、ものすごい想像力のようなものが必要になるのかな。
最近はあまりやることがなくなったけど、昔は結構「物語を書く」ために「物語を書く」というようなことをやっていたような気がする。今は、人間の感情を書く時は、自分の中から探している気がするが。だけど(それらのジャンルを舐めている訳じゃあないけど)、二次創作とか、或いは「物語を作る」ことに徹底した作品作りもあるのじゃないかな?と思った。ジャンプ連載作品の中では、『めだかボックス』などに、そういう匂いを感じたのだけど、ただ、西尾維新作品を『めだかボックス』以外読んだことないから、氏の作家性や本人性は分からない部分もある。
話がちょっとそれるけど、演技をする時も、役の感情を自分から見つけてくるか、自分にはないけど「作り出すか」そういう選択もあったような気がする。近年は98%くらい「それっぽさ」を追い求めている気がするが。
自分自身の感覚だと、ブログに書く小説は、自分なりの面白いポイントが核にあって、それを書くためにほかの要素を持ってくる。核は、ダジャレだったり、設定だったり、状況だったり、感情だったり、二次創作(IFもしもの世界、何らかの続き、妄想)だったりする。核が、「人の感情」だったら、感情は多分自分の中でリアルなものに書くだろうけど、それ以外の場合は、大体が核の部分を際立たせるために、「それっぽい」物語を書くようにしている。小説は、娯楽として様々な機能があると思うので、目的によって、手段も変わってくるのじゃないだろうか。
西尾維新の小説はいくつか読んだことあるけれど、確かに、言葉遊びや、メタっぽい物語・設定にこだわる感じがあるな。イメージ的には、「普遍的な感情」を書くより、「これまでにない感情(設定)」を書くような。
ジャンプ本誌の話になるけど、最近の「めだかボックス」割と、社会的なことや、『共感』も意識されている感じはする。ただし、それはフィクション内に現代の問題をおりこむという意味で、メタフィクション的なモノかも知れない。
話は変わって、最近、意識したのは「自分が良いと思った感情」と同様の感情を与える(であろう)小説を書きたいということもあった。以下がそれ。
2014年02月06日 ナカノ実験室 URL 編集
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