恋愛脳
禁煙二ヶ月達成を祝して、恋愛に関してぐちゃぐちゃと考えてみる。こういう不快指数の高い時期こそ、粘着的な事を考えるのにむいている。
さて、私が恋愛の事を考えた時に、頭をうちつける厄介な感情は、嫉妬心と被害妄想だ。これは、恋愛に限らず、私の思考の大半を占めている。しかし、禁煙も二ヶ月もすれば、クリーンな思考もある程度戻ってきて、恋愛に関して考えをまとめると…
①嫉妬するのは、「好き」という事ではない。
②寂しくなるのは、「好き」だからではない。
③過去を哀れむ気持ちは「未練」でしかない。
④我侭になるのが「恋愛」という訳ではない。
という事が分かったような気がする。実践出来ているかは、別だ。恋愛というのは、正の感情も負の感情もごちゃ混ぜにしてしまいがちだが、上に挙げた4点は、「恋愛」ではないし、でも、それらが混ざれば、「恋愛」と錯覚する事だってある。
では、「恋愛」とは何だろうか?と考えれば、それは「未来を想像する。」という事じゃないだろうか?自然と傍らにいる人の事を想像出来れば、「恋愛」で、希望であれば「片思い」なんだろう。未来が見えなくなっている状態が「倦怠期」なんだろうな。想像の域を出ないけど…。で、「片思い」は希望でしかないので、ここで無理が生じる事が多いのだろう。
では、傍らに存在する事とは?それは、自分の活躍の場を見つける事じゃないだろうか?ルックスなんて言葉があるが、そんなモノは長続きせん。年を取れば崩れる。まあ、人によるが…。見つけるべきは、自分の活躍出来るフィールドで、それに無理がなければ、一生幸せでいられる。
はて?私の隣で活躍出来る人間は、どんな人間か?私は、不器用だけど、「何か一人で成立している。」感じがあるらしく、だから彼女は出来ない。本音を言うと、器用じゃなくとも、全部自分でやりたいと常々考えている。
だったら、自分の活躍出来るフィールドを探すべきだろう。出来れば、偽善でなくて、善の心で。まあ、私は「偽善」という言葉が大好きですが…。
おっと、いかん、脳の話をせねば…。
と、どれだけ「恋愛」の事を本気で考えてみても、それは、脳内での物質の動きでしかない。悲しいのも苦しいのも悔しいのも、脳内の物質バランスでしかないのだ。
もっとも、「恋愛」には、子孫存続という、生物的使命もかかわっているのだが、「恋愛」しなくても結婚出来るし、「愛」はなくても子どもは作れる。
そういった生物としての前提を踏まえた上で、「恋愛」を考えると、やはり、脳に行き着く。
脳とは、精神や思考を生み出す場であり、それは外界に影響し、脳自体が色々な物質のバランスを必要としている。タバコやアルコールが人間に必要だと思えるのは、そのためである。脳内の物質の状態の多様性が、人間にとって悦なのである。
喜怒哀楽という代表的な感情があるが、それは全て悦である。怒ったり、悲しくなったりはしたくない気がするが、演劇というものを考えてみたらどうだろうか?色々な感情を作る事が楽しいのである。人だって殺す。
で、実生活において、頭を悩ませる感情というのは、自分のリアルに結びついているかどうかである。その部分さえやりくりすれば、失恋したって、絶対に楽しめる。脚本を書く人間は、そういう部分を持っていないかな?
さて、脳の物質のバランスは組み合わせが多すぎるが、焦点を恋愛に、そして、「好き」と「嫌い」にあててみようか?
「欠落した感情」というものがある。何かの感情が足りていないと、人格として歪になるらしい。例えば、「優しさ」はあるけど、「思いやり」がないとか、かなり歪だ。
さて、恋愛脳においても、その欠落した部分があるかないかで、恋愛感、つまりは、人生観だって変わってくるのじゃないかと思えた。で、考えたのは、4つの感情、というか、条件として
…
①誰かの事を好きになる。
②誰かの事を嫌いになる。
③誰かから好かれる。
④誰かから嫌われる。
というのを考えた。私は、圧倒的に③が欠落している。誰かから「告白」された事はない。
で、この4条件が全部そろっている事が、脳の経験の多様性、つまりは人格の安定なのである。私は③が欠落している事で、被害妄想が強かったり、嫉妬心が強いのだろう。嫉妬心とは、つまりは、自信のなさだ。
例えば、②と④が欠落した人とかは、どうだろうか?私は詐欺だと思う。詐欺とは言わなくても、打たれ弱いのじゃないだろうか?②が欠落している人間は、多分、①も出来ない。感情とは、背中合わせだからだ。
私自身に必要なのは、③なのだが、完璧に受身な事なので、実現不可能なんじゃねえか?と思っていたが、答えはすぐ近くにあった。それは、②を抑える事じゃないかと思った。私は、結構、えぐい悪態をつきまくる癖があるのだが、それは確実に③を遠退ける気がする。だがしかし、②を根源的に無くすのは、存在が歪になるから、せめて口に出さない。それが、大切だ。
もし、僕が③を得れば、安定した人格を得られる気がするが、演劇的な面白みはなくなるかも知れないな。
さて、ここしばらく、周囲の女性を見聞きしていると、③が尊いものだと思っている女性が多い気がする。③とは、「誰かから好かれる」事である。③が重要だと考えている女性は、総じて魅力的だと思うのだが、しかし、ここで言いたいのは…
「誰かを好きになるなんてのは、身勝手な感情」
でしかないのだ。恋愛なんて「好き」になったもの勝ちである。特に負けが込んでいる人間程、適当である。「失恋」する事が、全く怖くなくなる。如何に面白く「失恋」するかを考えたり、するのだ。つまりは、私の事だ。ちなみに、「怖くない」と「悲しくない」というのは別だ。
失恋でさえ、脳の物質のバランスの一形態でしかなく、脳自体はそれを欲しているのだ。
③を重要視している人間程、①を体言出来てなかったり、受け手になってたりする。①、つまり、「誰かを好きになる」とは、声に出して、やっと、完成するだろう。
魅力的な人間程、③を軽視して、漫然と生きるべきである。そうすれば、その魅力は失われる。いや、魅力を失うのは良くないか、でも、①が苦手、声を出すのが苦手な女性は多いのではないだろうか?必要なのは声に出す事である。
「求める」事は、「切り捨てる」事と同じくらい尊いのだ。
さて、不快指数にまかせて、ぐちゃぐちゃと書いてみたが、私がもてない原因は、こういう事を考える所にあるのかも知れないです。私は、「こういう文章」にのってくる人を必要としている訳じゃありません。誰が傍にいようと、多分、勝手に考えますから。
こんだけ、「恋愛」に関してごちゃごちゃ、考えた私は、別に今、「彼女」が欲しいという事はありません。欲しいとするなら、「恋人」かな。
この微妙なニュアンス、あなたの脳は感じる事が出来るかな?ここまで、読み進めた人はいるのかな?
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