ザ・遺書
今まで、「死にたい」と思った事はあったが、「死のう」とおもった事もないのだと思う。遺書も書いた事もない。だが、これが遺書という訳じゃない。
実際、遺書を書くとしたら、どんな事を書くのだろうか?恨みがましい文章になるのだろうか?それとも、現実と自分を美化した感じになるのだろうか?
だがしかし、私は死ぬにしても、死の原因や動機が正確に伝わる訳でもなく、都合よく解釈されるだろう。
そもそも、僕が死んだとして泣く人はいるのかな?
二年前くらいの冬だったかな。一番、ひどい死に方って何かな?と考えた時、出た答えは、「死んでも泣く余地を与えない」って事だった。僕自身、友人の葬式に出席した時、棺桶を前にした時、初めて涙が出た。
言い換えれば、棺桶がなければ、死体が出なければ、死を実感出来なければ、涙を流す事もなかろう。
だから、死体の出ない死に方。その時は、北海道からフェリーで京都に戻る途中だったから、「飛び降りる」事を考えたが、なんだかんだで、今まで生きている。
死体が出なければ、死を実感出来ないで、涙も出ないと思うのだ。だが、僕が死んだら、どれくらいの人が泣くのだろうか?誰も泣かないって思うのだが、私自身、友人の死に直面した時は、想像以上に涙が出た。だから、僕が死んだとしても…。泣いてくれるかな。
でも、あれか、永い目で見れば、今、周囲にいる人らは、この先、疎遠になるばかりだから、10年立てば、泣かなくなるな。とすれば、死ぬなら、今か!
ブログ村ランキングです!
応援お願いします!
にほんブログ村
↑ジャンプ感想ブログランキングもチェックできます!
スポンサーリンク
スポンサーリンク
読んで欲しいです!自薦記事。
この記事の前後の記事。
同じカテゴリ内の前後の記事。
そろそろ別のサイトへ→
退出口